星田神社が創建された年月に関しては詳らかではありませんが、 伝えによると現在、本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遙か以前に一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野物部の祖である饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られておりました。
天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されており、文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったと記されています。また、御神宝として鎌倉時代の御神刀が当社に伝わっております。
その後、宝永年間(1704~1711)に当地方の総氏神であった磐船神社のご神霊(住吉四神)を当時の磐船神社神主であった平井源左衛門がお遷ししてお祀りし、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。そして、元々お祀りしておりました交野大明神のお社は古宮と呼ばれるようになりました。以後、御本殿にお祀りされた住吉四神は星田の氏神として崇敬されました。
ご本殿には、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして、神功皇后を祭神としてお祀りしています。総称して住吉大神と申します。神代以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。また、住居守護、安産をはじめ様々な御神徳で御崇敬されている神様です。
「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝えには伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれたと記載されています。