八幡社(新宮山八幡宮)

八幡社はもともと星田神社の東に位置する新宮山の頂上に明治時代初期まで、新宮山八幡宮としてお祀りされていました。しかし、明治維新の神仏分合整理により、当社末社の八幡社に遷座されます。

八幡宮鎮座の由来は、平安時代南都大安寺の僧・行教和尚が豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から男山の峯(石清水八幡宮)に御神霊をお移しする際に新宮山に立ち寄ったことにも由縁があります。後に星田の土地が石清水八幡宮の荘園となり、この地域の守護神として、八幡宮の分霊を勧請(お迎え)してお祀りし、石清水八幡宮を本宮、こちらを新宮と呼びました。

室町時代中期には新宮山八幡宮の北側に宮寺「愛染律院」が存在し、神仏習合の形で八幡社の傍に六小社、寺院六支院があり、隆盛を極めました。また、慶長20年の大坂夏の陣で東高野街道を南下した徳川家康が星田に宿営し、新宮山に陣を敷いた際には八幡宮社前の松の大木に軍旗の白旗を掲げて、八幡神の御神徳を仰いだという逸話がございます。この「旗掛け松」は明治初期まで存在しました。現在は新しく植樹した「旗掛け松」が立派に成長しております。

しかし、その後は次第に衰退を重ね、新宮山八幡宮は明治5 年(1872年)に廃されて、星田神社の境内に遷座され、社坊であった寺院も廃寺となり現在に至っています。

かつて、社坊であった愛染律院にあったと伝えられる星田の光林寺に移座した釈迦三尊像、地蔵菩薩立像(岡山県真言宗別格本山高山寺に移座。国の重要文化財)や新宮山に現存する宝篋印塔からは当時の隆盛を偲ぶことができます。